上杉謙信女性説の3つの謎について

謙信女性説について少し気になった事柄があり、この記事を書いてみる次第です。
個人の考えた事をつれづれに書いたものですし、勘違いなどもあるかもしれませんが、気軽にお読みいただけると幸いです。

  • 謙信が女性でないとすれば・・・

謙信女性説には「謙信は婦人病で亡くなった」「スペインの古文書に謙信の事を叔母と書いたものがあった」などの興味深い根拠が多数存在しますが、そのどれもが反証の余地があり、現在「謙信は女性だった!」とは断定できない状態にあります。
私も謙信はおおかた男性だったろうと思います。(もしいわゆる男性らしい男性でなかったとしても、戒名や書状の書き方からして、少なくとも対外的には男性として生きていたと思われます)
しかしながら謙信が男性であり「女性謙信は存在しないもの」とすれば、謙信女性説の根拠として挙げられている、以下の2点について謎を感じました。

  1. 新潟の白山神社にのみ存在する「馬上女性」の御神体は誰がモデルなのか?
  2. 瞽女唄に登場する「まんとら様」とは誰がモデルなのか?


  • 「び」の旗をさした女騎の絵

上杉謙信は女だった』(八切止夫著)より抜粋

「ふつう、お白さまとよばれる白神さま御神体は、白い木質で彫刻された男女二柱といいうことはどこも全国的に決まっていますが、ここらあたりは珍しいことに、まるっきり違います」と蓋をとってくれ、軸になっている巻物をひろげたところ、馬にのった女の絵だった。(中略)
「・・・古いものは、こういう着物姿ではなく、鎧をつけていますよ」脇から神官は付け加えた。(中略)
「中頚城郡の板倉もそうだといいますが、彼処の白山堂にあるのは・・・」いいよどんで、「びという字の旗をさしているそうです」

女性説根拠のひとつとしてあげられる「新潟の白山神社御神体」についてですが、白山神社は元々女性の神を信仰しているようなので、馬に乗った女性の絵が御神体なのはそれほど疑問には思わないのですが、「「び」の旗をさしている」というのは何故だろうと思います。
びの旗と言えば、上杉軍の毘の旗しか思い浮かびません。
実物の絵を確認したわけではありませんし、そもそもその絵が戦国期に描かれたのかいつ頃描かれたものなのかもわからないのですが、例えば、戦国期に上杉軍に目覚しい活躍をする女騎がいたとして、その存在が人気となりついに御神体に描かれることになったということがあったとしても、他の文書や史料などに存在を確認できない女騎が、大切な神社の御神体として描かれるとは考えにくい・・・。
御神体にまでなるほどの大きな存在の、びの旗をさして馬に乗る女性となると、どうしても女性謙信を思い浮かべてしまいます。


『越後瞽女屋敷・世襲山本ごい名』より

「白虫赤虫一二匹 まんじ巴とくるうなか とらどしとらづきとらの日に 生まれたまいしまんとらさまは 城山さまのおんために 赤槍たててご出陣 男もおよばぬ大力無双」

女性謙信らしき人物が描写されているとの事で、謙信女性説の根拠の一つとして挙げられている瞽女唄の歌詞です。
上杉謙信は女だった』によれば、「城山さまは白山さまとも読める」「おしらさまの司祭は瞽女」との意味の文章がありました。
私は神社や神様などのことは詳しくないので、素直に受け取ると、「謙信は白山の神のために出陣し、白山の司祭である瞽女はそんな謙信に感銘を受けて唄にした」と、三者に関連性を見出すこともできます。
もっとも、この唄がいつ作られたのかは不明ですし、謙信が白山を信仰していたような話は聞いたことがありません。
「城山のために出陣した寅年生まれの怪力女性」をモチーフにしたこの唄は、何者がモデルでどのような意図をもって作られたのか気になります。

  • もう一つの謎

謙信女性説といえば「1970年代に八切止夫氏が唱えはじめた奇説」という見方が一般的です。
しかし、1980年に出版された「戦国武将の墓相」(杉浦岱典著)の一節に「謙信女性説は昭和以前から存在していたのではないか?」と思わせるような内容があるのです。

  • 女性説は昭和以前から存在していた?

『戦国武将の墓相』(杉浦岱典著)より抜粋(一部いちこ補足)

(謙信は)巷説では厠に入ったところを「乱波」のたぐいに槍で突かれ、血まみれになって死んだという。この説は新潟県下では根強く囁かれており、筆者も明治18年に柏崎で生まれたという古老から、茶飲み話に聞いたことがある。(中略)また、この古老は「謙信女性説」も教えてくれた。戦前もずいぶん昔で、筆者の幼年時代である。

この話を素直に受け取ると「明治生まれの古老から、戦前に謙信女性説を耳にした」ということになり、八切氏が70年代に女性説を唱える以前から謙信女性説は存在していたことになります。
ちなみに明治18年は1885年であり、戦前とは太平洋戦争前のことだろうから、開戦の昭和16年(1941年)の時点でその古老は56歳です。(56歳で古老扱いなのは戦前だからでしょうか)

  • 「八切バージョン」ではない謙信女性説

もしこれらの話にいっさい間違いがなく昭和以前から女性説があったとしても、「謙信が女性であった」という証明にはなりませんが、大変興味深いことです。
男性だけど女性と勘違いされるような要素があったのか、対外的には男性とされていたが本当は女性で民衆に怪しまれていたのか、それとも江戸時代あたりに謙信の特異な人生から女性説を思いつき噂を広めた人がいたのか、など様々な可能性を考えてしまいます。
そしてそれらの流れとは関係なく、偶然にも八切氏が女性説を発見したのでは?とも思えます。
もしこの話が真実なら今でも新潟に、八切氏の説とは関係ない「昔から伝わっている謙信女性説」を知っている人たちがいるのかもしれませんし、そちらの説の詳細がわかれば、女性説に新たな動きが起こるかもしれません。


思いつきは以上となります。どれもこれも自分が調査したわけではなく、本を読んでの私の想像です。